長門鉄道(小月〜西市)跡

 長門鉄道は皇紀2578年(大正7年)から皇紀2616年(昭和31年)まで山陽本線小月駅から西市(旧山口県豊浦郡豊田町の中心地区)までを結んでいた地方私鉄である。鉄道の恩恵から外れた菊川、豊田地区の発展の為だけでなく、小月から長門市方面を結ぶ壮大な計画もあったようだが、資金不足のため西市から先への延伸は行われることはなかった。大東亜戦争中においては、山陽電気軌道(現、サンデン交通)に経営統合されたが、皇紀2609年(昭和24年)に再び長門鉄道としてスタートを切っている。しかし、皇紀2616年(昭和31年)4月30日に全線が廃止されてしまった。会社自体は長鉄バスとしてしばらく残っていたが、皇紀2635年(昭和50年)サンデン交通に吸収された。
 当線は最後まで単線非電化であり、開業以来の蒸気機関車による混合列車や後年導入されたガソリン動車が運行されていた。西市付近の林業をはじめとする沿線貨物の輸送を目論見、国鉄と同じ1067mm軌間を採用している。
 なお、当線とよく似た名前の地方鉄道に長州鉄道があった。この鉄道は東下関〜小串を結んでいた鉄道であったが、後年、幡生〜小串が国鉄山陰本線、東下関〜幡生が山陽電気軌道幡生線(現在は廃止)に転用されている。当線と直接の関係はない(ただし、長州鉄道の客車を長門鉄道が譲り受けている)が、同じ山口県西部に存在した地方鉄道として共通のものがある。
 調査は、皇紀2665年12月19日に田部停留場付近のみ、ティンマニと扶桑座が行った(近くまで連れて行ってくれたのは部長だが、彼は昼寝してしまったので調査に加わらず)。なお、皇紀2666年12月21日にも扶桑座が単独で調査を行っている。

使用車両.
 ※あまり詳しい事は分かっておりませんに、間違い等はご指摘下さい。

蒸気機関車

1・2…開業時に導入した蒸気機関車。独逸ポーター社製の18tのCタンク車である。このうち、1号機が東洋レーヨン滋賀工場専用線に皇紀2607年(昭和22年)に譲渡され103号機として活躍。現在は加悦SL広場で保存されている。2は戦後直後に廃車された模様。
4…皇紀2582年(大正11年)に導入されたコッペル社製のCタンク車。戦後直後に廃車された模様。
C251…大東亜戦争中の皇紀2603年(昭和18年)に鉄道省より譲渡された。鉄道省時代は1269号機で、それ以前に佐久鉄道15号機←河東鉄道2号機の経歴を持つ。昭和25年頃に廃車された模様。
C241・242…旧帝國海軍呉施設部で使用されていたCタンク車を戦後直後に譲り受けたもの。鉄道廃止時まで残存し、廃止後は船木鉄道へ譲渡され、そして皇紀2621年(昭和36年)船木鉄道と運命を共にした。
C231…皇紀2607年(昭和22年)に導入した立山重工業製のCタンク車。当鉄道と運命を共にした。

ディーゼル機関車
DB171・・・鉄道近代化の為に皇紀2612年(昭和27年)に大阪・高田工機より導入した当鉄道最初で最後のディーゼル機関車。Bが示すとおり2軸の小型ディーゼル機関車であったが、エンジンを2基搭載して、1軸に1基ずつ付き、2基のシンクロには機械連結が使用されていた。このようなディーゼル機関車は全国にもほとんど例を見ず、多分に試作的要素が強いと考えられる。当鉄道最新の車両であったが、試作的要素が強かった事、小型(形式名の17は17t)であり輸送量が小さかった事により他鉄道に譲渡されず、当鉄道と運命を共にした。わずか4年の短い生涯であった。

気動車
キハ1…皇紀2588年(昭和3年)に導入した木造の2軸ガソリンカー。後にキコハ1に改番し皇紀2600年9月には車体、台車を新製し両端にバケットを持つボギー車として生まれ変わった。廃止後は滋賀県の江若鉄道に譲渡され、客車ハフ2として活躍しその地で廃車された。
キコハ10…皇紀2589年(昭和4年)に導入したガソリンカー。皇紀2612年(昭和27年)5月、元中国鉄道キハニ210を譲り受けキハ10として使用する際、名義をキコハ10の改造としている。
キコハ2…皇紀2697年(昭和12年)に導入した片ボギーのガソリンカー。皇紀2612年(昭和27年)にキハ10、キハ11を使用するにあたり、エンジン撤去の上客車化されコハ6となった。
キハ10…皇紀2612年に導入した元中国鉄道キハニ210で国鉄のキハ41000(キハ04)と同形。名義上はキコハ10の改造。廃線後は防石鉄道に譲渡され、運命を共にした。
キハ11…国鉄の半流線形ガソリンカー、キハ42000形(後のキハ07)の一両、キハ42017を譲り受けたもの。当鉄道の旅客車としては最大の車両であった。廃止後は、江若鉄道に譲渡されてキハ19を名乗り、GMH17からDMH17Bに換装、ディーゼルカー化された。さらに機械変速から液体変速に取り替える。その後、片方の運転台を撤去して他の気動車と3両固定編成化。しかし、江若鉄道が廃止されると今度は関東鉄道龍ヶ崎線に移籍。中間車を抜いた2両編成で運転を始めた。皇紀2635年(昭和50年)に車体を新製され、長門鉄道時代の面影はほとんどなくなった。以来、キハ522として龍ヶ崎線で活躍し、最終的に廃車されたのは皇紀2657年(平成9年)のことである。

客車
ホハ1〜4・・・開業時に導入された木造ボギー客車で長州鉄道の中古車。後に全車コハ1〜4に改番。コハ2を除く全車が廃止時まで活躍し続けた。
ホハ5…皇紀2585年(大正14年)に導入された木造ボギー客車でこれも長州鉄道の中古車である。後にコハ5に改番し、廃止時まで活躍した。
コハ6…キコハ2をエンジン撤去して客車化したもので、末期の4年間のみに見られた。

歴史.
皇紀2578年(大正7年)10月7日…小月〜西市18.2km全線開業(阿座上以外の全駅開業)
皇紀2588年(昭和3年)2月1日…開業以来蒸気のみであった当鉄道に内燃動力併用が許可され、以後ガソリンカーを併用
皇紀2588年(昭和3年)4月24日…阿座上停留所開業(開通後唯一の新駅設置)
皇紀2602年(昭和17年)11月1日…大東亜戦争戦時体制による全国交通事業者統制の流れを受け、山陽電気軌道に吸収される
皇紀2605年(昭和20年)…利用者数が161万人(廃止までで最も多い旅客利用人員数)
皇紀2609年(昭和24年)4月1日…山陽電気軌道より分離、再び長門鉄道としてスタート
皇紀2616年(昭和31年)5月1日…全線廃止

1.小月〜長門上市
 起点の小月には本社や機関区、車庫を有しており、末期には使用されなくなった旧型の木造客車などが留置されていたという。小月から600mほどで長門上市。下大野から旧菊川町内に入る。
 この区間の調査は皇紀2666年12月21日

長門鉄道小月駅跡
▲長門鉄道小月駅跡。JR西日本山陽本線小月駅と若干離れた位置に、山陽本線へ斜めに合流するような感じで存在する。現在は、某Arukとその駐車場になっている模様。その北側の廃線跡は団地に転用されている。

長門上市駅跡付近
▲暫定的な始発であった長門上市駅付近。小月駅とは500mしか離れていない。廃線跡を転用した道路があり、その近くにある空き地がどうもそれっぽい。近くにはサンデン交通の『小月上市』停留場がある。ぶれてるね


▲上記写真地点より小月方面を望む。廃線跡は左の小道の模様。

2.長門上市〜上小月
 長門上市から上小月(当線の駅があったわけではなく、付近の地名。もっとも、当鉄道は駅以外の場所でも平気で乗降をしていたというが!!!!)の間は、途中山陽道小月インターチェンジ付近で廃線跡が分断されるものの、自転車道として比較的良好な雰囲気で残存している。この区間の調査は皇紀2666年12月21日


▲長門上市駅跡付近より北側は廃線跡が舗装道路として残存。長門鉄道現役時代には存在し得なかった山陽新幹線の下を潜る。


▲廃線跡の脇で側溝渡板に使われる鉄道用枕木。長門鉄道のものである可能性が高い。全線でも枕木の残存例は極めて珍しい。


▲山陽新幹線との交差から北側200mほどの地点。廃線跡はこの舗装路というよりその左側にある未舗装部分の可能性が高い。


▲小さな用水路を渡ったあたりで小月方面を振り返る。用水路に鉄道用と思われる橋台や暗渠の類は見られなかった。


▲用水路を渡った付近で先ほどの舗装路部分は右に分かれていく。一方、未舗装部分が新たに舗装され遊歩道が始まる。まさに廃線跡を転用した道路である。


▲少し進むと廃線跡の両脇に煉瓦状構造物が出現する。長門鉄道時代より存在したものであろう。導水路か?


▲煉瓦状構造物の先で再び用水路を渡る。改修されたか或いは廃線後にできた水路なのか、いずれにしろコンクリート製で橋台は残っていない。それにしてもここを渡るのは何ともアバウトなもので、左にある重たそうなコンクリートが置いてあるだけであり、転落防止柵などは全く無い。


▲用水路を渡ってすぐに柵で行き止まりになる。道路は廃線跡から離れていく。小月ICへの取り付け道路により廃線跡が分断されてしまうのである。なお、向こう側には菊川方面への県道が続いているが、廃線跡は県道に合流しそうで合流しない。


▲取り付け道路によって分断された廃線跡は、県道に接しただけで再び舗装路となって上小月方面に進む。高速道路をくぐった先は自転車道路となっている。

3.上小月〜下大野
 上小月付近は自転車道路になっている。一部で長門上市付近で見られたような煉瓦状構造物があるらしいが未確認。やがて、廃線跡は山口県お得意の道路工事によって発生した国道と県道分岐付近で発生した廃道付近で不鮮明になるが、その先から少しだけ廃線跡が判明する。しかし、旧下関市菊川町境付近で廃線跡が不鮮明になり、そのまま交換設備を有していた下大野駅に滑り込んだ。この区間の調査は皇紀2666年12月21日


▲道路工事によって不鮮明になった廃線跡が再び出現する。小川を渡る橋台がどうやらオリジナルのものらしい。


▲廃線跡から下大野方面を望む。すぐに県道と合流する。左側の木造電信柱も鉄道時代のものか?


▲廃線跡は剣道の歩道部分として残存している。しかし、画面中央奥の林辺りで廃線敷は途切れてしまう。

4.下大野〜上大野
 下大野駅は交換設備を有していた。最盛期は、下大野、岡枝、石町が交換可能駅であり、いずれも側線を有して貨物取扱をしていたが、廃止前は岡枝のみで列車の交換があり、下大野・石町は交換がなくなっていた。調査は皇紀2666年12月21日


▲下大野の北側から岡枝の直前までは舗装された通学路に廃線敷が利用されている。下大野から1km程度の場所で下大野方面を望む。


▲田圃の中を緩くカーブした狭い舗装路が行くのはまさに廃線跡そのものである。上記地点より300mほどの箇所より同じく下大野方を望む。


▲上大野停留所は小学校の手前にあり、通学輸送に貢献していたようである。右手の舗装路が廃線跡で、下大野方を望む。


▲上大野停留所現役時代よりあったとされる木。左の舗装路がが廃線跡で岡枝方面を望む。


▲木の根元には【長門鉄道 上大野停留所跡】の碑が建てられている。


▲上大野から田部、岡枝方面へ廃線跡の自転車道路が続いている。

5.上大野〜田部
 この区間はちょっとした峠越え区間であり、鬱蒼とした森林を切り通しで越えていたが、最近は新興住宅がちらほら見受けられるようになってきた。しかし、田部停留所には当時のホーム跡がくっきり残っている。調査は皇紀2665年12月19日


▲途中の踏切跡から上大野方面を望む。廃線跡は自転車道路に転用されている。皇紀2665年12月19日


▲上の写真から田部方面を望む。ここからカーブして切通しを抜ける。廃線跡の典型的な雰囲気を漂わせている。皇紀2665年12月19日


▲切り通しを抜け、上大野方を望む。幾つか小川を渡ったが、鉄道時代のものを転用しているようではなさそう。なお、この辺りは、冬だというのに毛虫が大発生している。皇紀2665年12月19日


▲やがて田部停留場跡が見えてくる。なんと当時のホーム跡が残っている。廃線から50年の月日を耐えてきたその根性には恐れ入る。なお、写真手前の掘っ立て小屋の他、ホーム上には古い建物(画像奥)があり、故宮脇俊三氏の『廃線跡を歩く』シリーズのどこかで当線が紹介された際には駅舎とされていたが、田部は停留場であり駅でないのに駅舎であるのは変であるし、やたらホームの端に位置しているので、廃線後建てられたものではないかと思われる。皇紀2665年12月19日


▲田部停留所周辺の小川を渡る箇所に、当時の橋脚を転用したと思われるものもあった。皇紀2665年12月19日

6.岡枝付近
 田部を経て旧菊川町の中心街、岡枝に延びていた。岡枝には貨物側線があり、インク工場が隣接し、戦前は満州や台湾方面にも出荷されていたという。また、農業用倉庫が多数近接して存在し、それらの貨物を扱う側線が存在していた。皇紀2666年12月21日


▲田部〜岡枝で田部川を跨ぐが河川改修によって橋梁跡は全て撤去されている。田部川から北側は廃線跡が途切れるが、岡枝駅手前で民家に至る未舗装路として出現する。


▲岡枝駅構内はかなり広い。また、長門鉄道時代からあったと思われる木造の農協倉庫が未だに残っている。

7.岡枝〜込堂〜西中山
 岡枝からは込堂、西中山、石町、阿座上を経て終点西市に至っていた。石町から旧豊田町に入っていた。込堂〜西中山にはトンネルがあり、現在も遺構が残るという。込堂からは木屋川にそっていた箇所もあった。しかしながら、岡枝〜込堂や湯の原隧道跡は未訪問
 この区間の調査は皇紀2666年12月21日


▲込堂からは県道にそった自転車道として残る。岡枝方面を望む。途中、新湯の原ダムの西側に小高い丘陵地帯があり、県道は大回りで越えるが、長門鉄道は全長109mの湯の原隧道(トンネル)で越えていた。しかし、湯の原トンネルは現存するものの木々や藪に覆われて近づき難い。廃線跡を転用した自転車道も湯の原隧道を避けて、階段で峠を越える。


▲湯の原隧道付近を県道から眺望する。自転車道は右手(岡枝方)をスロープ付階段で越えているが、長門鉄道は画面中央の小高い山を貫通していた。画面中央部で自転車道と再び合流し左(西市方)に向かう。なお、この付近では木屋川が廃線後にできた新湯の原ダムによって満面の水を湛えている。


▲峠を階段で越える自転車道(右端)と廃線跡の合流点から湯の原隧道方を見る。現在でも両方の入口が残っているというが、鬱蒼としていて全く判別できない。


▲合流点から西市方は廃線跡の上に舗装された自転車道が築かれ、続いている。

8.西中山〜西市
 西中山停留所付近から石町駅までは木屋川に沿って、廃線跡が未舗装で残っている。石町は交換可能駅であり、付近には農業倉庫などが残っているが駅跡はなく、バス停に名残をとどめる。華山の東麓をひた走っていた長門鉄道は阿座上停留所を経て、旧豊北町の中心地で終点の西市駅に到着した。西市には、かつての蒸気機関車の動輪が展示されているというが、調査日はいずれも12月の暮れで日没によって満足な調査が出来ずに終了した。


▲石町から西市までは廃線跡の大半が舗装路として残る。長門鉄道の気動車にカブリツキをしたつもりで車内から撮影したが、この後、クルマを擦ってしまった・・・・危ない運転はやめよう・・・

9.西市以遠
 建設が行われた記録は無い。ただ、当鉄道は陰陽連絡の計画もあり、扶桑座が勝手に考えたルート上に鉄道部品を飾る洋食屋が存在するので(当線がらみのものはないが)、当初の計画の忘れ形見として、とりあえず載せる。


D51の動輪と補助輪とのこと

5.沿線
 当線の廃線跡調査はまだ不完全であり、いずれ機会があれば行うこととする。
 なお、皇紀2665年12月19日廃線跡調査は当日豊田湖でワカサギ釣りをした帰りについで程度に行ったものであった。豊田湖の様子、そして沿線で気になったものを少し。


▲豊田湖 人造湖である。冬季にはワカサギ釣り有名(無論、氷上ではなく、湖岸の桟橋乃至ボート使用)。皇紀2665年12月19日


▲菊川地内で見かけたやたらリアルな案山子(特に左)。なんで交通安全の襷をかけているのかは不明。夜見たら恐ろしく怖いこと間違いなし。皇紀2665年12月19日


▲田部停留所ホーム跡でウンコ座りをして馬鹿面をするティンマニ。何故、こうも奴は反社会的反道徳的反日本人的な行いを平気でするんだ?皇紀2665年12月19日

参考資料 Rail Magazine230号(2002-11) 【消えた轍 第13回 船木鉄道・長門鉄道】
鉄道廃線跡を歩くZ (宮脇俊三編)

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