下関要塞 蓋井第一砲台跡

 関門海峡周辺には、かつて関門海峡を守護すべく下関要塞地帯が作られていた。関門海峡に侵入せし敵艦撃沈を担う砲台や堅固な保塁が関門海峡両岸に幾つも作られたが、大東亜戦争に敗北して無用の長物と化し、やがて下関及び北九州の市街地拡大により次第に歴史の中に埋もれていった。しかし、大東亜戦争戦闘終結より60年以上を経た現在においても、その一部が健気にその雄雄しき姿を我々に見せてくれる。
 ここでは、響灘に浮かぶ蓋井島にかつて作られた蓋井砲台の跡について調査した。下関要塞地帯の砲台の多くは、日露戦役の前に建造されたものが多いが、蓋井砲台は昭和期に入って建設されている。この時期は響灘一帯の離島群に相次いで砲台が建造され、本島の他、角島、白島、沖の島や現下関市豊浦町観音崎などに砲台陣地が形成されている。蓋井島では皇紀2593年(昭和8年)に第一砲台が起工され皇紀2595年(昭和10年)に完成しているが、さらに支那事変が勃発した後の皇紀2598年(昭和13年)にも第二砲台が追加起工されている。
 蓋井砲台は、吉見からの連絡航路が蓋井港に入港する直前、進路右側に見える乞月山付近と島の北側にある大山付近に存在した。ここでは、大山付近に存在した砲台陣地を調査した。調査日は皇紀2665年(平成17年)11月19日。調査員は扶桑座、ティンマニ

蓋井島航路の様子(←クリック)





蓋井第一砲台跡(大山)調査

草生す道 灯台の手前から島北側に向かう道を進み、金比羅山入口、電波塔を過ぎて左に分かれる道を進む。途中より植生が凄まじくなる。
広場 藪漕ぎを終えると全く踏み跡の無いススキ群生を越え、程なくして響灘を望む広場(牧場跡と言われる)に出る。九州側や白島などが見える。
蓋井島大山 広場から大山を見る。画像手前の藪に見える箇所は低木群であり、踏破には若干苦労する。なお、ここから先の道の分かりにくい箇所には、先に登山道を開拓した方が目印のテープを貼っており、これにより何度助けられたことか!!
手製門柱 先ほどの低木群を抜けると森林の中に入る。テープを目印に進むと手製の門柱が現れる。砲台跡にはおそたく関係しないと思われる。
女になるためち○こを切った。 程なくして「女になるためち○こを切った!」と落書きされた木が出現する。下品な内容ではあるが、迷わない為には非常に良い目印である・・・ホントに切ったのかは知らん…
観測所用井戸跡? 目印を伝って先に進むと砲台の跡らしきものが出現し始める。これはこの先にあった観測所用の井戸か?
観測所(?)跡 井戸らしき構造物の先に最初の大型の遺構である観測所跡が出現する。放棄60年以上の歳月により、すっかり周囲は木々に覆われている。
登山道に組み込まれている施設跡内部 蓋井島登山者は構造物の内部を通り、大山北部へと向かうため、施設跡の窓より内部に侵入するよう、印がつけてある。
レンガ製の構造物内部 構造物内部。外観は全てコンクリート製だが、内部では一部レンガも使用されている。
煉瓦の窓辺 レンガ部分の窓。放棄60年以上により内部の崩壊や外部からの土砂等の流入も見られるが、比較的状態は良好である。なお、内部には某ワンカップ大関の瓶が散乱しており、何者かがここで宴会をしていた模様。
木々に覆われた観測窓 観測部と思われる場所は屋根構造が崩落して久しく、著しく植生している。
無意味なティンマニ 観測所跡を越えても、その先にはまだまだ遺構が残る。観測所跡を背景に無意味なポーズをとるティンマニ
何の遺構だろう? 施設の遺構をまた発見する。この先にある、タイガーロープのある急坂を越え、さらに奥地にある遺構を目指す。
擬似砲 擬似砲(上空から俯瞰した際、あたかも砲があるように見せかける石積みの構造物))の跡が出現する。
壊れた擬似砲 擬似砲はこの先にも幾つか存在するが、風化や倒木等により壊れているものも多い。
台座跡 さらに進むと砲台座跡が出現する。円形の台座跡が見て取れる。
二番目の観測所跡 さらに今度は別の観測所跡が出現する。先ほどの観測所跡と比べ、さらに強固に作られている。
電話機台 観測所内部に入ると電話機臺の文字が消えずに残っていた!!
電話線引込孔 さらに電話線引込孔の文字も!!
観測所内部 観測所跡内部。中央の階段を昇ると観測台跡に出る。
観測台跡。上部屋根が崩れ落ちている。
白島を向け 観測窓上部に、左視界白島東白島規(その下判別不能)の文字が残る。窓の外は木々が繁茂しているので白島は見えづらい。関門海峡に日本海側から敵艦が侵攻した場合、響灘離島群の各砲台が連絡を取り合って敵撃破せんとしていたのであろう。
黒板位置 観測窓下部にも黒板位置の文字が残る。
眼鏡台高247.80 観測台の中心に眼鏡台座が残り、眼鏡台高247.80の標記が残る。
眼鏡台孔 その眼鏡台座の真上には空孔が存在する。現在は枯れ枝や落ち葉により塞がれつつある
不気味なティンマニ 観測所跡で不気味な笑みを浮かべながら昼食をとるティンマニ。
弾薬庫跡とティンマニ 観測所の100mほど北側には弾薬庫跡が残る。ここも崩落が激しい。コンクリートと頑丈な鉄製扉跡が、その名残を今に伝える。その中を見入るティンマニ。
弾薬庫跡前の森林 弾薬庫跡内から外を見ると一面森林に覆い尽くされている。
左射界 弾薬庫跡から獣道なりに進むと砲台跡が出現する。左射界と書かれた石標が残る。
最後に見た砲台跡 今回訪れた蓋井砲台跡は、この砲台跡を最後に引き返した。これよりさらに北側にも兵舎跡や別の観測所跡が存在するとのことだったが、そこまで行くための道が発見できなかったのと、吉見への定期航路がこの時期は15時で終わってしまうため、早急に引き返す必要があったためである。蓋井灯台から徒歩約1時間45分、ここに着いたのは13時過ぎだったので、ペースを上げて戻る必要があった。このため、後述する災難が…


下関要塞響灘離島砲台群について

 下関要塞地帯砲台群の一翼を担った蓋井砲台が人知れぬ山中に遺棄されてかなりの年月が経つ。蓋井島自体はほとんど開発の手が伸びていないため、このような山中に遺棄された砲台跡は、崩落している箇所もあるとはいえ、かなりの箇所が旧態のまま残っている。また、火の山砲台のような本州及び九州本島の砲台・保塁は明治期に造られたものが多く、その大半が煉瓦製であるが、蓋井島など響灘離島砲台群は昭和期の建設によりコンクリートが多用されているという明確な違いを持つ。
 なお、蓋井島には第一砲台第二砲台が存在し、砲台陣地が大山付近と乞月山付近に存在していたことが知られる。学習研究社発行の『日本の要塞』によると、第一砲台の備砲は明治末年に制式化された移動式のカノン砲である四五式十五糎加農砲(45式15cmカノン砲)』を固定式に改良した『四五式十五糎加農改造固定式(特)』であるとされ、第二砲台はそれより小型だが対空迎撃がとりあえず可能である大正11年に制式化された『一一年式七糎加農砲(11式7cmカノン砲)』であるとされる。上記の資料では、どちらの陣地が第一砲台、または第二砲台なのか確認できなかったが、大山の陣地が総じて響灘方を志向して設置されているのに対し、乞月山の陣地は関門海峡を志向して設置されているように思えるため、大山の陣地が第一砲台乞月山の陣地が第二砲台であると考えられる。なにぶん、参考資料は上記の『日本の要塞』ぐらしかめぐり合えていないものであり、間違っていたらご指摘していただきたいものである。
 昭和期に相次いで建設された響灘離島砲台群は、大島砲台・白島砲台・蓋井両砲台そして豊浦町にあった観音崎砲台がほぼ同一直線ラインに並ぶように建設されている。このうち、約20km射程の15cmカノン砲が大島と蓋井第一に、短射程だが対空迎撃可能な7cmカノン砲が白島、蓋井第二、観音崎に設置されている。これらの砲台が建設された昭和期では、本土側に建設された砲台・保塁が目的としていた関門海峡を侵攻する敵有力艦艇撃破という状況が起こるとはむしろ考えにくく、すでに大型艦艇との交戦よりも、中小艦艇等や航空機に対応したものと思われる。また、大島・観音崎ライン上にない角島砲台、沖ノ島砲台にも15cmカノン砲が設置されており、沖ノ島・大島・蓋井第一・角島の15cmカノンはかなり広い海域をカバーしており、これらで撃ち洩らした艦艇や航空機の撃破を7cmカノン砲が担う予定であったのであろう。なお、角島には支那事変直前に制式された新型の九六式十五糎加農砲(支那事変で鹵獲したドイツ製の15cmカノン砲とも言われる)、沖ノ島には制式化されなかった試製十五糎加農砲が設置されていたとされる。なお、関門海峡に程近い六連島にも支那事変期に砲台が建設された(もっとも当地には江戸時代より砲台設置場所として知られている)。備砲は7cmカノン砲と30cm榴弾砲であったという。現在、六連島には海上自衛隊下関基地隊六連警備所が存在する。砲台ではなくレーダーで関門海峡を行く船舶等を監視するのが主任務で、砲台が存在した離島群で自衛隊施設が存在する数少ない島である。
 明治期に作られた本土側の砲台群、そして昭和期に作られた離島の砲台群とも、一度も敵艦船との交戦を行うことはなく、皇紀2605年(昭和20年)に大日本帝國軍が解体されてしまったことにより、永遠に過去の存在となった。
 現況について、本土側にあった明治期の砲台群は、戦後関門両地区の都市開発により失われてしまったものも多いが、これら昭和期に作られた離島の砲台群は、比較的開発による損失を免れている。本土側からアクセスの良い角島や大島の砲台跡は整備されており、気軽に楽しむ事が出来る。本土側からアクセスの悪い蓋井砲台は、行くまでに困難を伴うものの、自然のままの砲台跡の姿を楽しむ事が出来る。なお、白島(男島と女島という二島からなり、男女群島とも呼ばれる)には現在石油備蓄基地が建設され、一般人の往来は基本的に不可能となっているので、遺構の状況は不明である。また、沖ノ島は古来より神の宿る島として知られて、現在でも女人禁制など厳格なしきたり残り、島内の沖津宮という神社の関係者以外の住民はおらず、ここでも一般人の往来は基本的に禁止であるため、遺構の状況は不明である。


与太話

 わしは時計を睨みながら急いで下山していた。その際、なんと大山にて携帯電話を紛失してしまった!!幾ら探しても見つからず、最後にティンマニの携帯から「わしの携帯よさらば」の音声を入れて泣く泣く蓋井島を後にした。
 それから90日ほど経った2月中旬、奇跡的にわしの手元にそのとき落とした携帯が戻ってきた!!どうやら野鳥会か何かの登山者が偶然見つけ、それを蓋井丸の船員に託したという。しかも、機種は偉大なる某auの某G'z-oneであったため、風雨にさらされながらも電源がつく状態で残っていた。よって、今でも電源を入れる事が可能である(ちなみにわしは無くした当日に携帯電話屋で同じ機種のものにとりかえてもらったため記念品としてとって置くのみであるが)。


蓋井第一砲台へのアクセス

 初めに言うが、絶対に単独での訪問は進められない!!砲台跡は大山の西側に存在するが地形図上に道の無いところを歩くのであり、斜面なども多く、怪我や遭難などが生じた場合、最悪な結果に陥る可能性も充分有り得るのである。少なくとも二人での訪問が望まれる。
 アクセスは、蓋井港の背後にある集落の西外れからやまどりの散策道という道が延びており、そのまま進むと蓋井灯台に向かうが、灯台の手前で島の北側に向かう道が分岐している。この道を進み、途中金比羅山や電波塔脇を通りながら、電波塔北側150mほどで左に向かう道があり、その道を進む。道を進むと次第に藪が凄まじくなるが、一旦響灘を望める広場のような箇所がある。ここから低木群落の中を進む。山中には、登山家らが木にリボンなどの目印をつけているのでこれを参考とする。獣道を進むとやがて最初の観測所跡が出現する。観測所内部に侵入し、目印通りに進めば他の砲台跡を見ることが出来る。
 なお、目安としてわしとティンマニが蓋井港から一番北側の砲台跡に辿りついた時間は片道2時間弱であった。大山最奥部にはわしらも確認していない遺構がまだあるとのことだが、蓋井島連絡船の時間等も考慮せねばならず、訪問前に綿密な計画を練る必要があるのは言うまでもない。
 なお、蓋井島にはマムシが生息しており(実際、ティンマニが遭遇した模様)、訪問時期も考慮する必要があろう。


 終わりに、とりあえず遺構の訪問は行ったが、まったくと言っていいほど参考文献を見ていないため、ここに記載した内容の大半が扶桑座の空想によるものである。よって、記載内容に不備・誤りなどがある可能性が高く、それらを発見した場合は速やかに連絡していただければ幸いである。

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