大日本帝國陸軍第一航空師団第六野戦航空修理廠軍用貨物線

 北海道十勝地方の中心都市帯広市。依田勉三の晩成社開拓団の入植に始まり、十勝監獄囚人による整備を経て、入植50年程経った皇紀2593年(昭和8年)に市制を敷くに至る。その二年後には帯広緑ヶ丘飛行場が開港した。民間機が発着するようになったが、皇紀2597年(昭和12年)、支那事変が勃発すると大日本帝國陸軍の軍用飛行場に転用された(そちらは昭和20年代は帯広駅から直接軍用貨物線が延びていた)。
 皇紀2601年(昭和16年)に大東亜戦争が勃発し、ますます戦時体制が強まる中、皇紀2604年(昭和19年)には帯広飛行場も北海道・千島方面の防空を担当する第一航空師団司令部が進出する等、北方方面へ防衛強化が行われた。そんな中、帯広飛行場にあった修理廠が敵空襲から疎開すべく、近隣の池田町利別地区北西方に第六野戦航空修理廠として設置された。この修理廠に向けての軍用輸送を担ったのが、ここで紹介する貨物線であった。

 おそらく、大東亜戦争後半の皇紀2604年(昭和19年)に開設されたが、大東亜戦争敗戦により使用されなくなったので、活躍期間は1年程度と思われる。しかし、廃線跡はほとんど道路として転用されており、運用停止70年経過しても、跡を追うのは難しくない。

 帯広飛行場自体は、戦後も引き続き使用され、陸上自衛隊と民間機が発着していたが、市街地に近いのでジェット化には向かなく、旅客用としては皇紀2641年(昭和56年)に新たに開港した新空港に役目を譲った。その後も、回転翼機部隊が発着する本土北辺防衛を担う陸上自衛隊の飛行場として、当初の帯広飛行場は使用され続けている。

 今も残る軍用貨物線跡を調査した。調査は皇紀2675年5月6日
 (本ページカットオーバー 皇紀2675年5月21日)



起点の根室本線利別駅は、軍用線現役時代は600mほど池田寄りにあったが、皇紀2627年(昭和42年)に現在地に移転。今は軍用線分岐点をホームから望む事が出来る。旧駅から見た時は、暫く軍用線が根室本線に並行していたのだろうか。。

利別駅に停車するキハ40の根室本線下り普通列車。下り列車の進行方向左側に座っていると廃線跡が分岐しているのが分かりやすい。わしも発見したのは、気動車最長(皇紀2675年(平成27年)では国内最長)の滝川発釧路行普通列車2429Dの車窓からであった。


ホームから望む廃線跡右側は接続する農道だが、線路に最接近した先から廃線跡が始まる。


分岐点から数百mは未舗装路で残っているのでかなり雰囲気が良い。さすがに木製電信柱は戦後製と思うが、これもまた貴重である。。


別の農道と合流すると舗装路になるが、廃線跡そのまま転用しているので跡をトレースするのは簡単である。


直線と緩いカーブが連続する廃線跡独特の舗装路がここにも続く。それにしても沿道の残存農家の自家用トラックは良き昭和のものが何台か残っていると見た。


廃線跡から神社を何社か見る。おそらくは入植初期に建立されたのであろう。廃線後も変わらずこの一帯を見守って下さるのだが、沿線住民が守り続けているのだろう。


終点の手前で渡渉地点があるが、河川改修によって新しい橋が作られ、全く痕跡はない。そして、この橋を渡った地点でT字路となり、廃線跡は終わってしまう。おそらくその先に延びていたのだろうが、畑と化してしまっている。


しかし、軍用とはいえ鉄道がさっさと無くなってしまう地区であるにも関わらず、貴重な公共交通機関(池田町営スクールバススクールバス青山線豊田北5線停留所)が存在する。


鉄橋付近の空き地にはかなり古い枕木の山が存在する。まさか当線のとは思うが、それらしいものがあって嬉しいものである。


終点付近には、民家に転用されているが、第六野戦航空修理廠関係と言われる建物が今なお残存している。付近には修理工場、洞窟を利用した地中倉庫等があったというが、廃線跡とともに明確に残る貴重な遺物である。

本土北辺防衛のため、1年だけ存在した軍用貨物線と修理廠。今もその面影は残っている。

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