下関港貨物線 大浜線

 かつて下関駅貨物ヤードから下関港へと延びていた貨物線は、
・一つは下関大丸の横をすり抜けて唐戸・細江町方面へ延びていた線
・一つは下関駅南東方向の第一・第二突堤方面へ延びていた線
・一つは下関駅貨物ヤード南端から小瀬戸海峡に沿いながら山陽本線を潜り抜けて下関駅西側の漁港市場方面へほぼ半周するように延びていた線
の三方向に大別されます。現在は、いずれの路線も営業を取りやめていますが、これらの路線が港町下関を支えてきた非常に功績は大きいものがあります。ここでは、このうち、
下関漁港に延びていた貨物線の廃線跡現状を報告します。なお、トワイライトゾーンMANUAL5に下関の貨物線についての記載があり、巻末の昭和42年度の全国専用線一覧表も参考にしました。当サイトでは、第二突堤方面の貨物線を市営上屋線、魚市場方面に延びていた路線を大浜線、唐戸方面に延びていた路線を細江線と呼ばせていただきます。万が一、詳細をご存知の方がいらっしゃれば、御教示戴けましたら幸いです。それでは、どうぞ。

(改版履歴…皇紀2671年3月20日 記述一部変更)


皇紀2665年2月27日(第一回目訪問)

 寝台特急【あさかぜ】及び特別急行【いそかぜ】廃止にあたり、下関車両管理室で記念撮影会が行われていた。その帰り道、扶桑座とH本が大浜線廃線跡を探索した。

画像 説明文
 廃線跡はレールが残っているものの、道床から木々が生えている。しかし、この大浜線は皇紀2660年頃まで貨物列車が走っていたとのことなので、幾らなんでもこの数年でここまで木が育つとは考えづらく、廃止後に植えたのかもしれない。
 黒ヌコが線路上を行き来していた。
ダブルクロスが残っている。ダブルクロスってかっこいいね。
下関貨物駅方を望む。といっても、当線は下関貨物駅から180度反転して漁港に着くかなり珍しい線形なので、起点の下関貨物駅はここより画面左側にある。もっとも、下関車両管理室があるので左を突き進んでいく事はできない。



皇紀2665年4月6日(第二回目訪問)

 この時は大人数で押しかけた。即ち、ハイスクール氏、H本、扶桑座、ティンマニ、t田、ド・ボーズ。周囲から奇異なる視線を浴びせられたがまあキニシナイ。

画像 説明文
このダブルクロスのダルマ型転轍機は動くのである。
恥写真その1(拡大画像あり)
認めたくないものだな、自分の若さゆえの過ちと言うものを。
恥写真その2(拡大画像あり)
ハイスクール氏は髪が長く、H本は相変わらずティンゲ頭で、扶桑座は逞しい髭があり、t田は相変わらずt田で、ティンマニは変わらずに馬鹿で、ド・ボーズはそのままキモイ。古きよき思い出だ。
恥写真その3(拡大画像あり)
なんでこんな妙な写真を撮ったかというと、全ては新入生獲得のプロモーションの為。一応、成功したのかこの後、何名か入った。しかし、どいつもこいつもヘタレでDQNな奴等だったと見え、誰もいつかなかった。まあいいさね。



皇紀2665年11月23日(第三回目訪問)

 ティンマニと扶桑座が「下関魚まつり」に赴いた際に、漁港内に残る廃線跡を発見した。

画像 説明文
ダブルクロスから僅かに見えていた下関漁港貨物ホームをついに拝める時がやってきた。線路はまだ残っていた。
ホーム上屋。ホームは物置き場と化している。
このホーム跡で線路は途切れており、コンクリート製車止めが出来ているが、最盛期はここより北側まで線路が延びており、その痕跡の踏切跡が見える。



皇紀2666年5月3日(第四回目訪問)

この日は前日発の下り寝台特別急行【富士】【はやぶさ】が大幅に遅延し、下関止まりとなった。事前にその事をつかんだ扶桑座は、単独でこの珍事を見るべく下関駅に繰り出した。なお、同日発の上り【富士】【はやぶさ】も当然ながら下関発となる。このため、上りの出発も見送る事にした。それまで、下関駅周辺を徘徊し、大浜線や市営上屋線の跡を見る事にしたのである。

画像 説明文
下関貨物駅(下関駅南側に広がる側線群のうち、関門隧道に向かう山陽本線高架橋の東側に存在する日本貨物鉄道所有の側線群。西側は西日本旅客鉄道の下関車両管理室が広がる)から大浜線は分岐していた。
 高架橋の東側にある貨物駅から西側にある漁港に向かう為に、山陽本線高架橋を潜り180度反転して延びていたのである。
 起点すぐにあった踏切跡。
踏切跡から漁港方を望む。薮になっているが蔦に覆われた枕木が廃線跡を示す。
比較的現役当時のまま残っていた廃線跡であったが、皇紀2664年頃にレール撤去が開始された。だが、ザルのように撤去したらしく、一部に埋もれたレールが残っていた。
上記地点から奥を見ると側線が分岐しているのが見えた。どうやら東側にも側線が延びていたようである。
廃線跡から下関車両管理室を望む。ここは電車庫で、115系セキC編成などが頻繁に出入りしている。
山陽本線高架橋を潜り、起点方を見る。レールを撤去しただけである。
やはりレール撤去はザルのようで、彦島に向かう道路橋の真下にもレールが埋もれて残っていた。
廃線跡から小瀬戸運河を望む。このあたりは関門隧道建設時に埋め立てられた土地である。ここでもレールが埋もれている。
踏切状に残っているレール。
複線で残っているレール。
急カーブで90度北進する廃線跡。
撤去しそこなった枕木片と思われる。
起点方を望む。ちなみに対岸の彦島では、画面中央の道路橋が降りた辺りにメイドカフェが出来たらしい。
さらに北上すると道路との交差部分が近づく。
道路との交差部分にはやはり踏切跡が残っていた。
ちなみに線路跡を横切る道路は彦島可動橋につながっている。遮断機がある。
踏切跡の北側にわずかながらレールが残る。
古レールの埋まったコンクリート塊を確認した。
レール跡から漁港側はフェンスが作られて入る事が出来ない。



皇紀2666年11月23日(第五回目訪問)

 5月3日に訪問できなかったフェンス北側も、毎年恒例「下関魚まつり」により公に進入成功。はれて、大浜線の全体像を伺う事が出来た。

画像 説明文
5月3日、フェンスによって伺うことが出来なかったフェンス北側から起点側を望む。
上記地点から漁港側を望む。廃線跡は魚まつり駐車場と化していた。
駐車車両の下からレールが出現した。
ここより貨物ホーム付近までほぼレールが残っている。しかし、そのほとんどが埋もれてしまっている。
上記レールの西側に側線跡が出現する。
側線はアスファルトに埋められているが、ポイント部分はそのまま。
左の線路が下関貨物駅へ至る線路、中央の線路が漁港内の側線群のひとつである。右に向かう線路は漁港南側の積出設備へと延びている。
某林兼産業本社脇に残るレールの群れ。まさか、ここと遠縁の会社と縁を持つことになろうとは…
ポイント部分に残るダルマ型転轍機。
物置き場となった廃線跡。魚網などが置かれているのがやはり漁港の廃線跡らしい。
廃線跡と漁港との間に突如妙な色のワム80000廃車体が大量に出現。
ワム80000の1両は舞鶴重工製であった。大日本帝國海軍舞鶴工廠の流れを汲む会社である。貨車の製造メーカーは多種多様なものがあった。
延々と連なるワム80000廃車体。
ワム80000の連なる横にも廃線跡は存在していた。
またダルマ転轍機が出現する。
再び下関貨物駅からの本線は駐車場と化した。一方、先ほど分岐した漁港南側の積込上屋脇に延びていた側線がアスファルトにうもれ続いている。
アスファルトで埋めても再びでてきたレール。
本線側もポイントを幾つも抱え、多数の側線を排出している。
カーブを描く積込上屋横の線路跡。最盛期にはここに真っ白な冷蔵貨車が連なり、漁船から降ろされたばかりの鮮魚が次々と積み込まれて、満載になったところでDE10に牽かれて下関貨物駅に向かい、そこからEF66で一路東京築地貨物駅に向かっていたのであると思うと感無量だ。
トラックに踏み潰される側線。この貨物線もトラック輸送によってダメージを受けてしまい廃線となった。それを案じさせるような情景だ。
用途不要となった私有冷蔵コンテナが置いてあった。この貨物線の末期はコンテナ扱いだったようだが、効率的なコンテナ貨物といえど自動車には太刀打ちできなかった。
程なくしていつも見る貨物ホーム跡に到着。しかし、最盛期はここより北側にも線路が延びていたという。
貨物ホーム北側の線路はかなり前に消失したらしくもう殆ど痕跡は無いが、辛うじて埋めた跡が判別できる箇所も存在する。

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