山陽本線旧線跡(長府〜下関)

 山陽本線の長府〜下関間は皇紀2588年(昭和3年)という恐ろしいほど大昔に路線変更がなされている。皇紀2561年(明治34年)に厚狭〜馬関(昭和17年に廃止された旧下関駅のこと)が山陽鉄道によって開業させられた際、長府〜馬関は関門海峡一帯に火の山に代表される要塞地帯が存在していたため関門海峡沿いではなく内陸をまわるルートが設定された。しかし、急勾配や急曲線が存在するこの区間は輸送上の隘路ともなっていた。折りしも昭和3年11月19日、長府〜旧下関駅間が複線化され、この際、路線の一部区間の位置が変更された。これにより、幡生長門一の宮(現在線の長門一の宮駅は現在新下関駅を名乗る)の両駅が現在位置に移転している。なお、長府以東の複線化は大正13年には終了している(本区間の複線化により山陽本線全線複線化が成し遂げられたわけではない)。
 大昔に廃止されたこともあり、旧線の遺構は可視できるものは非常に少ない。可視できるものとしたのは、遺構の一部が近年になって道路工事や下水道工事などの際に出土した例がしばしばあるからである。しかし、国道2号線バイパスや中国自動車道、住宅地などに路線跡用地の大半が転用されているので、出土した遺跡も埋め戻されてしまうのが実情である。そんな中でも、一部に当時をしのべる築堤や駅用地跡なども残っている。廃止から間もなく80年、下関市内に残る明治時代に作られた鉄道跡を調査した。調査日は皇紀2666年(平成18年)6月4日。扶桑座のみ。

1.下関〜長門一の宮
 調査は全くの参考文献や当時の地形図などを持たずいきなり敢行したため、細かい部分についてはみていない。しかし、当路線は故宮脇俊三氏編集の『鉄道廃線跡を歩くX』でも紹介されており、断片的に内容の記憶を辿りながら、調査した。
 現在線と旧線は現幡生駅の南側で分岐し、旧幡生駅は現幡生駅の南側にあった模様。この辺り、最近新たなバイパスを建設するため工事中であり、クルマの往来が激しいので跡地は確認していない。
 その後廃線跡は県道258号線に吸収される。県道258号線と248号線が交差する付近にスーパー大栄があり、HAM平がバイトをしている。目の前が廃線跡だとは知るまい。また、そこから258号線を進むこと数百m北側に、ワラ1廃車体の置いてある解体業者があり、下関車両センターで解体された車両の残骸を引き取っているようで、調査日には113系F-15編成クハ車?や103系H01編成の残骸が積み上げられていた。
 東に進んでいた廃線跡は中国自動車道下関IC付近で北側に大きく向きをかえる。この辺りは中国自動車道や国道2号線などに吸収され跡は全く分からない。なお、この付近でトンネル跡が出土したことは『鉄道廃線跡を歩くX』にも記述の通りである。
 長門一の宮駅跡に辿り着くまでに旧線跡の築堤が一部残っていた場所もあったようだが未確認。やがて、長門一の宮駅跡を転用したといわれる住吉神社北側の大駐車場に着く。
 


旧長門一の宮駅跡と言われる住吉神社北側の駐車場

2.長門一の宮(旧)〜長府
 旧長門一の宮駅からまたしても廃線跡は途切れる。しかし、現在線との合流付近に、可視化できる遺構の中で最高のものと思われる旧線の築堤跡が出現する。80年近い年月を経ているため、一見すると分かりづらいが、築堤跡の延長線上に現在線があり、旧線跡である事が伺える。


画像中央に見えるのが旧線跡の築堤。80年の月日によりかなり崩れ、築堤上に木も育っているが、当線の数少ない遺構である。

築堤の手前側は農地になっている。現在線は右にカーブして下関方に向かっているが、旧線は直線的に進んでいたようである。

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