山陽電気軌道幡生線跡

 かつて下関市内には山陽電気軌道による市内軌道が存在していた。いずれの路線も昭和40年代に全廃されており、会社そのものはバス会社サンデン交通として現存している。
 さて、山陽電気軌道の本社があった東下関駅(現サンデン交通本社のある東駅地区)から山陽本線幡生駅まで幡生支線が存在した。他の路線が道路との併用軌道だったのに対し、幡生線は東下関〜小串で営業を行っていた長州鉄道のうち幡生〜小串が長門線(現 山陰本線)として国有化された為、長州鉄道として残された区間を元としており、市内軌道線と相互乗り入れをしていたものの、専用軌道を路面電車が走る少々変わった路線であった。途中、幡生操車場を鉄橋で越えていた。市内軌道線の末期まで存在し、皇紀2631年(昭和46年)に全線が廃止された。
 専用軌道とは言え、廃止後35年以上を経過している為、市街化により痕跡は消滅しつつある。先の山陽本線を跨ぐ鉄橋なども見当たらない。しかしながら、意外な場所に遺跡が残っていた。調査は皇紀2666年2月25日。なお、t田とティンマニも参加した。

金比羅停留場〜武久停留場間において、武久川を渡る橋梁の橋台跡が今も残っている。皇紀2661年頃まで桁も残っていた模様。東下関側を望む。この先にあった山陽本線を越える鉄橋は既にない。
川の中に橋脚の基礎が残っている。余り綺麗な川ではない。河口に近く海水が流入してくる為、イガイ類やアオサ類が付着する。
幡生側も橋台が残る。この前後の廃線跡はよく分からない。
幡生側橋台上に残る朽ち果てた犬釘付き枕木。山陽電気軌道の枕木の残存例としては、これくらいしか無いのではあるまいか。それにしてもチャリンコが惨めだな。
幡生側橋台上に残る桁を固定していた鉄板。ちなみに、この廃線跡の幡生側延長線上には、かつて部長がアルバイトしていた某3Qドラッグが存在する。


番外編

▲部長及びHAM平宅からは幡生工場が俯瞰できる。鉄道系研究会部長として、この上ないくらい素晴らしいロケーションに居住しているにもかかわらず、その恩恵が全く理解できないらしい。 ▲この日は、前年10月改正で廃止され用途済みとなった寝台特急【彗星】用オハネ15の8両が解体されていた。現役の寝台特急用量産B寝台車としては悲しいかな「最新鋭車」たる14系15型であるが、悲しいかなちょっと古い兄貴分よりも先に天へと召され、その魂は靖鉄神社へと向かうのである。 ▲幡生工場入口付近の空地でキャッチボールを開始したティンマニとt田。目も当てられん。

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