簡易軌道 勇知線

 かつて、北海道では、開拓にあたり、簡便な軌道を建設する事が多かった。それらは、一般の地方鉄道や軽便鉄道とは性格を多くの部分で異にしており、内務省管轄の北海道庁(旧)によって管理されていたもので、道路建設がままならぬ時代、まずは、簡易な軌道を建設し、それをまさに生活道路代わりとも呼ぶべき開拓の為の基本インフラとして、各入植地の開拓に利用したのである。
 戦前は「殖民軌道」と呼ばれていたが、大東亜戦争中の皇紀2602年(昭和17年)から「簡易軌道」と呼ばれている。戦後も開拓農民のインフラとして各地で活躍していたが、やがてモータリゼーションの進展やそもそも北海道開拓地の離農離村による過疎化進行などが重なって、各地に存在した軌道も次第に失われていき、皇紀2632年(昭和47年)の浜中町営軌道を以て全廃された。

 この勇知線は、宗谷本線勇知駅から日本海に近い下勇知地区まで約10kmを結んでいた簡易軌道だが、建設時期および廃止時期、動力、運行形態、停留所位置など、基本データを示す資料せえほとんどなく、謎の多い軌道である。おそらく、大東亜戦争末期に建設がなされ、戦後すぐに運行が開始されたが、その後すぐに運行を取りやめてしまったと思われる。昭和31年発行の50000分の1地形図(抜海)には当線が記載されている。この時に運行されていたかは不明。廃止告示は皇紀2617年(昭和32年)という。

 謎の多い軌道を調査してみる事にした。調査は皇紀2670年6月27日
 (本ページカットオーバー 皇紀2670年11月6日)

←1.地点

起点の宗谷本線勇知駅は、国鉄時代末期に木造駅舎から貨車駅舎になり、構内も行き違い設備や側線が全て撤去された。
1.地点→
現在は、旧上り線のみが残っている状態である。かつて、勇知線は下り線側に接続していた模様。旧下り線ともども藪になっており、判別し難い。
←2.地点

勇知駅からは勇知川に沿うようにして下勇知地区に向かっていた。勇知川にそってそれらしい藪が続いているが、廃線跡の築堤というよりは、勇知川の堤防といった感じである。廃線跡のルートとは一致している。
3.地点→

ここで勇知川の支流を渡る。勇知線もここを渡っていたはずだが、橋梁の跡は見当たらなかった。廃線跡に交差する形となる酪農家私有地道が勇知川を越えているのが見える。
←3.地点

この辺りから勇知川が西に向きを変えるが、廃線跡もそれに合わせるように向きを変えていたようである。まさに、廃線跡と思われる場所を、ホルスタインが闊歩していた。まあ、勇知線も馬車軌道だったと思われるので、この場所は廃止後も畜力が走っていく場所という事になる。
4.地点→

勇知川に沿っていた廃線跡は、勇知川とともに道道811号線に近づいてくる。廃線跡は、当時からあった国道811号線の拡幅に利用されたわけではなく、どうも電柱の列がある当たりのようである。

それにしても、この時期、この道路は毛虫街道である…
←4.地点
勇知川と道道811号線の間にあるわずかな土盛。ここが廃線跡のようだ。もうちょっと前に来て、念入りに調べておきたかったな。藪がすごく、毛虫が大量にいるので。枕木があったら御の字、犬釘があったらよしよし、バラストでもうむうむ。またくるぞー。

毛虫怖い。
→5.地点

今まで道道811号線に沿って浜勇知(日本海側)に進んでいた勇知線が、突如、このオネトマナイ農免道路の交差点付近で南西側に向きを変える。
←5.地点

道道811号線を横切った廃線跡は、オネトマナイ農免農道の西側の藪部分のようだ。
→6.地点

廃線跡はここでまたしても道路を横切っていた模様。さりとて、この農免道路から離れるわけでもなく、今まで農道の西側だったのが東側に移っただけのようだ。終点付近は
←7.地点

地形図上の終点付近。酪農家が数軒存在(ただし廃屋も多い)。ここに至る直前で廃線跡は、また道路を横切っていたようなので、終点付近は農道の西側に軌道があった事になる。停留場跡のようなものは全く不明。

当線は余りにも資料が少なく、また存在期間も長くなかったので、当時を知っている人も非常に少ないと思われる。廃線跡も廃止(を昭和32年としても)から少なくとも50年以上経過しており、国鉄線のようなしっかりした路盤ではなく、馬車軌道だったのでその歳月の間にかなり不鮮明になってしまったようだが、草そして毛虫!の下を念入りに調べれば、まだ何か出てきそうな気がしないでもない。いずれ、また調べに来てみたい廃線跡だ。

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