寝台特急出雲 御悔やみ

 皇紀2666年(平成18年)3月18日改正において廃止された寝台特急出雲。扶桑座は前日の3月17日に東京駅に赴き、最後の輝きを見せる彼の姿を眼に焼き付けてきた。現役時代の姿とあわせ、彼の断末魔について以下に記す。

ホーム撮りな上に逆光という最低最悪な画像ですが…
国鉄色DD51が牽引する唯一の寝台特急、オシ24が連結される唯一の寝台特急、EF65が牽引する唯一の寝台特急『出雲』も廃止


寝台特急出雲


 寝台特急『出雲』は、東京〜出雲市を結んでいた寝台特急である。末期の列車番号は下りが3レ、上りが4レ。使用客車は24系、牽引機関車は東京〜京都がEF65 1000番代、京都〜出雲市がDD51であった。日本最後の、EF65牽引・DD51国鉄色車牽引・24系純正食堂車オシ24連結(営業は無し)など、ファンに人気が高い、国鉄時代の形態を色濃く残した列車であったが、言い換えれば旧態依然のままという事であり、惜しまれつつの廃止となった。
 出雲の原型となった、首都圏と山陰地方を結ぶ列車は戦前から存在しており、数々の変遷の末、皇紀2632年(昭和47年)に20系客車を使用した寝台特急『出雲』(東京〜浜田)が誕生する。その後、24系化や寝台特急いなばの編入による2往復体制化(元々の出雲は1・4号、いなば編入は東京〜出雲市で客車は14系)も行われたが、国鉄時代は指定券のとりづらい列車として知られていた。JR化後は、1・4号をJR東日本の24系で、2・3号をJR西日本の14系で運転。このうち2・3号については割引切符対象の3段寝台設置や個室の増設などが行われそれなりに活況を呈したが、1・4号に対してはさしたるテコ入れが行われなかった。変革が起きたのは、皇紀2657年(平成9年)のことで、14系使用の2・3号が廃止、24系使用の1・4号が出雲市まで短縮の上、号数が付かない『出雲』となった。これは、583系以来約30年ぶりの新型特急形電車285系による寝台特急『サンライズ出雲』が伯備線経由で運行開始したことによる。以来、『サンライズ出雲』と『出雲』それぞれ1往復ずつの体制になるが、比較的好調な『サンライズ出雲』に比べ、旧態依然のままの『出雲』は利用率が低下し、そしてついに皇紀2666年3月18日改正にて廃止されることとなったのであった。
 いつの日にか、大總統兼大国鉄総裁が必ず復活させてくれるであろうが、それまでの間、出雲は深い眠りについたのである。歴史のある列車であり、片や晩年に2回ほどしか乗車経験の無いわしがいろいろ申すのもなんだが、首都圏と山陰地方を結び、多くの人々を運び、そして消えていったこの列車の最後の姿を記すことにする。

廃止1年前の寝台特急出雲
皇紀2665年3月18日 出雲市

 偶然にも廃止のちょうど1年前のこの日、わしは寝台特急出雲に乗車するため、出雲市に向かっていた。折りしも、寝台特急『あさかぜ』『さくら』が廃止されたばかりであり、辛うじてこの改正では残存していた出雲であったが、いつ同じ運命を辿るやもしれないかと思い、帰省のついでに乗車した。当時は、廃止の噂はあったにせよ、正式な廃止発表はまだなく、まさかちょうど1年後に廃止となるとは思いもしなかった。
皇紀2665年3月18日 出雲市

 この日の牽引機は米子までがDD51 1121であった。米子で3両増結し、その際に別のDD51が京都までを牽引した。
なお、当日の編成は次の通りであった。
(↑京都)
DD51 1121
オハネフ25 128(8号車☆☆☆)
オハネ25 141(7号車☆☆☆)
オハネ25 226(6号車☆☆☆)
オシ24 702(5号車フリースペース)
オハネフ25 125(4号車☆☆☆)
オハネ25 143(3号車☆☆☆)
オハネ25 224(2号車☆☆☆)
オロネ25 7(1号車A寝台1人用個室シングルDX)
カニ24 101(電源車)
皇紀2665年3月18日 オハネ25 224 15上段

 わしが乗車したのはB寝台3号車 15番上段。オハネ25 224(昭和52年富士重工業製造)であった。同年1月3日には寝台特急『あさかぜ』のB寝台に乗車しているが、やはりモケットの配色などが異なっている。
 このとき、出雲市出発は2分遅れた。鳥取まで3・4号車が立席特急券で利用可能であった。
 
皇紀2665年3月18日 米子

 やがて米子に着いた。途中宍道(下関のみど窓のネーちゃんはこれが読めないらしい)で、わしのとこの下段に男性客が乗り込んできた。わしが予約した時点ですでに下段満席とのことだった。
 松江にてハイスクール氏守備範囲の女学生がたくさん乗り込み、賑やかになる。米子では機関車を切り離し、増結3両を従えた別のDD51を連結する。ホーム上には双頭レールを使用した柱が存在している。
米子で連結した機関車ならびに増結車両は次の通り。
(↑京都)
DD51 1175
オハネフ25 123(11号車☆☆☆)
オハネ25 146(10号車☆☆☆)
オハネ25 36(9号車☆☆☆)
皇紀2665年3月19日 東京

 その後は倉吉、鳥取を過ぎ、やがて餘部城崎温泉、豊岡も車内放送あり。22時20分に最後の放送。京都でDD51からEF65 1000番代に付け替える。しかし、わしは良く寝ていたようである。定刻運転ならば、発車間際に富士・はやぶさ(1レ)と京都駅構内ですれ違う。
 6時10分過ぎにおはよう放送が流れる。下段の男性は横浜で下車した。東京駅には7時前に到着。早朝にも拘らず、撮り鉄の姿は多かった。このHMはカッコいいしね。
廃止が発表されてから
皇紀2666年1月7日 東京(オシ24 701業務用扉前)

 ついに寝台特急出雲にも廃止発表がなされた。EF65PF、赤いDD51、オシ24など国鉄のブルートレインの形態を色濃く残し、これ以上ないくらい優秀なデザインのヘッドマークともいよいよ見納めとなるのか。というわけで、1年前の『あさかぜ』と同じく、帰省を兼ねて廃止発表がなされてからのお名残乗車を行った。相変わらずですな…本来はオロネ25を狙っていたのだが、わしが予約を申し込んだ時にはすでに満席だったらしく、やむなくB寝台になった。これも去年の『あさかぜ』と同じこと。
 画像はオシ24 701の業務用扉から東京駅9番ホームを撮影。廃止発表以来、出雲を被写体にする者が多くなったと聞く。
 ちなみに、この日は福田九右衛門なるジジイがおそれ多くも下関駅を放火全焼させてしまい、山陰、山陽方面のダイヤが大幅に乱れているとのことで、最後までこの出雲で帰れるかどうか判断しかねていたが、他もどうせ通じていないならこれで帰っても同じだと思い、あえて敢行した。ちなみに、出雲市まで出雲、そこから先は18である。この挙が間違いでなかったことは後に判明する。
皇紀2666年1月7日 東京(オハネフ25 145車内)

 秀逸なデザインのヘッドマークもわしが撮ると冴えないねぇ。発車前に撮影。
 4号車オハネフ25 126貫通扉部分の愛称幕。わしの腕を差し引いてもいいデザインなのが伺えるはずだ(?)。この日は、休日だったのにもかかわらず、米子回転車の増結はなし。B寝台も上段は空きが目立つ。オロネは満杯だったのに、肝心のB寝台がこれでは…
 以下、今日の東京〜出雲市の客車車番である。電源車と3〜4号車以外は昨年3月18日に乗車した時と同じ客車。なお、田町から東京までの回送の先頭に立ったのはEF65 1111(ぞろ目!!)、東京〜京都の牽引機はEF65 1112(1番違い!!)であった。

オハネフ25 128(8号車☆☆☆、1年前と同じ)
オハネ25 141(7号車☆☆☆、1年前と同じ)
オハネ25 226(6号車☆☆☆、1年前と同じ)
オシ24 701(5号車フリースペース)
オハネフ25 126(4号車☆☆☆)
オハネ25 145(3号車☆☆☆)
オハネ25 224(2号車☆☆☆、1年前と同じ)
オロネ25 7(1号車A寝台1人用個室シングルDX、1年前と同じ)
カニ24 112(電源車)
皇紀2666年1月7日 オシ24 701車内

 オシ24 701内装でも撮影したかったが、同業者部隊に制圧されたので、やむなくオシ24端の電話機横にある喫煙スペースを撮影。ぶれてるね。
 この後、京都(3時39分発)まで起き、EF65からDD51に付け替えるシーンを見ようと思ったが、どうやら2時ごろに耐え切れなくなって寝てしまった。よって、ついに京都での機関車付替えを見る機会はなかった。
皇紀2666年1月8日 鳥取

 翌朝、車内放送で起こされる。この時期山陰地方は大雪で、出雲は何時間も遅れが出ることがよくあり、九右衛門によるダイヤ混乱以前に、大雪による抑止の方が恐れられたが、結局最も恐れられた餘部鉄橋でも抑止は掛からず、多少遅れていたものの、充分許容範囲であった。天佑神助だ!
 浜坂でキハ181系最後の特急『はまかぜ2号』と交換する。その後、餘部鉄橋からの眺めは格別だった。そんなこんなで、鳥取駅にすべりこむ。鳥取駅まで上段寝台の若い女性としばし談笑する。こんなにわしが積極的になったの始めてやね。一期一会やからね。
 鳥取でカニずしを購入し、先頭車のDD51を撮りに行く。昨夜のEF65のヘッドマークは見られなかったが、代わりにDD51のを見ることが出来た。去年も見たけど、やっぱり出雲のは美しいね。
 京都〜出雲市の牽引機はDD51 1186、雪の中を走り抜けてきた事が、足回りとヘッドマークの雲の絵の上に薄っすらと付いた雪によりうかがえる。個人的には、この時のDD51 1186が某沖田十三艦長(結局階級は何だったんだ?)や某レビル大将を思い浮かべる。
 ちなみに、鳥取駅構内でDE15に遭遇。山陰地方、下手な東北よりよほど豪雪地帯であることを思い知った。
皇紀2666年1月8日 鳥取

『特急 LIMITED EXPRESS 出雲 出雲市 FOR IZUMOSHI』の側面種別行先表示機。結局米子行の幕を撮影することは出来なかった。
 
皇紀2666年1月8日 山陰本線沿線

 どこの区間かは忘れたが、米子へ向かう車内から山陰の名山“大山”を遠望できた。大山付近は雪雲に覆われている。この名を冠した夜行急行は皇紀2664年限りで廃止された(これもわしがお名残乗車)。そして、今度は出雲も後を追うように廃止される。
 鳥取〜米子でまた遅れが拡大してしまった。とはいえ、10数分程度だったので比較的定時に近い方であろう。有名な泊〜松崎のお立ち台には、雪空にも拘らず、結構な人数が繰り出していた。
皇紀2666年1月8日 米子

 米子に到着。今回は回転車の切り離しもなく、ダイヤ上はここで馬鹿停するため、遅れはここでほとんど相殺できた。最後尾のオハネフ25 128を望む。他の人に、このオハネフ25をバックに自分の写真を撮ってもらうようカメラを渡されたが、汚い写真しか撮影できないこのわしが、果たして彼のために良い記念となるものを撮影できたであろうか…
皇紀2666年1月8日 米子

 オシ24 701の業務用窓から内部を覗いてみる。食堂車の厨房の様子が伺える。かつて博多あさかぜに使用されていた際はここで『あさかぜディナー』(そんなメニューがあったらしい、当時で2500円とか)も作られていたのだと思うと、食べたことも博多あさかぜに乗ったことすらもないのに感無量だ。これはわしが想像力豊かだからだな!(ティンマニのような妄想力とは違う!)
皇紀2666年1月8日 米子

 米子でも先頭の機関車の前に人が集まる。牽引機は同じだが、鳥取の時より幾分か足回りに付着した雪が落ちている。
 なお、立入禁止の線路上に飛び出して真正面の写真を撮影した愚かな親父がいたが、機関士の方に怒声に近い声で注意されていた。廃止間際になるとさらにこういう光景が展開されそうで不安だ。
皇紀2666年1月8日 オシ24 701

 米子からは車掌も代わり、それまでの区間では流さなかった客車用チャイム『ハイケンスのセレナーデ』が途中駅到着前に流れる。しかも、各停車駅ごとの観光案内も併せて行われた。
 わしは松江以後、フリースペースのオシ24 701に移動して最後の区間を楽しんだ。進行方向右手に間近に映る宍道湖の湖面がなんともいえない。オシ24の車内にはそんなに同業者の姿はなかった。
皇紀2666年1月8日 オシ24 701

 元はオシ24トップナンバーであるオシ24 701。オシ14が全滅した今、国鉄寝台客車純正食堂車としては最後の生き残りであるオシ24 701〜703、廃止後もどこかで保存されないか(強いて言えばどこかで活躍してくれないか)と、少々我儘ながらも思うわしであった。
皇紀2666年1月8日 出雲市

 約14時間の長旅もここにて終了。寝台特急出雲の終点、出雲市である。わしが予約できなかったA寝台1人用個室シングルDX オロネ25の扉上部の表記を見る。下関駅のみど窓の姉ちゃんは『出雲』に“A寝台”があると思い込み、マルスでそう打ち込んでいて、わしが気がついてA個室だと言い直した時には、すでに全席埋まっていた。わしが出雲のA個室に乗れなかったのは下関クヲリティのせいだ!
 純正なオロネ25 0番代は出雲とともに消滅する(オロネ25 0番代を14系に編入した『富士・はやぶさ』用のオロネ15 3000番代は残る)。出雲では唯一の個室だったA寝台1人用個室シングルDX、さらば。
皇紀2666年1月8日 出雲市

 出雲が出雲市に着いた際、遅れは10分も無かった。例年、冬季は出雲は2〜3時間遅れることが多いとのことであり、その意味ではほぼ定時だ。むしろ、本来は出雲の前に到着しているはずの『サンライズ出雲』が、なんと当日は山陽本線内での人身事故の影響により2時間以上遅れて出雲の後に到着するという珍現象が発生した。他にも、やくも系統やまつかぜ・おき系統に遅れがかなり生じており、そのような状況下でいつも遅れているような出雲がほぼ定時で出雲市に到着していること自体が奇跡と言っていいだろう。わしの日ごろの行いが良いからだな!!
 なお、わしはこの後、下関に戻らなければならなかった。前述の通り、前日に福田九右衛門なるルンペンによって灰燼に帰してしまった下関駅駅舎放火事件により、山陽・山陰本線では甚大なる影響が生じていた。山陰本線では列車自体は運行されていたものの、長門市〜下関では2〜3時間に1本に減便されていた。快速アクアライナーで益田まで行き、そこから唯一の益田発下関行に乗り継ぐ計画であった。何故かは知らんが「このスジは、益田方面で使用する気動車の、下関車両管理室への入出も兼ねているだろうから潰されないだろう」と読んだ。結果は、本当にそうだったのかは知らないが、見事益田発下関行は運行され、無事吉見に到着することが出来た。さすがわし!部長じゃ先読みが出来まい、わっはっはっはっはっは!!
 ちなみに、出雲が消滅した同年3月18日改正によって、出雲市を14時台に出発するアクアライナー(3455D)と益田発下関行(1579D)は接続しなくなった。というか、益田での山陰本線の接続がかなり悪化している。
寝台特急出雲最終日
皇紀2666年3月17日 東京

 ついに寝台特急『出雲』最後の日がやってきた。当日、わしは東海道本線東京〜熱海より撤退する113系のお名残乗車(ついでに、東京自由乗車券最後の日でもあったので、東京自由乗車券フリー区間内である東京〜品川を113系)をした後、東京駅に舞い戻ると、『寝台特急 21:10 出雲 出雲市 11両 10』の表示が。これは今日限りで見納めとなる。
皇紀2666年3月17日 東京

 最後の寝台特急『出雲』出雲市行が出発する10番線の案内。この日は強風の影響により、東北本線(宇都宮線)や常磐線で遅延運休が相次いだ。
皇紀2666年3月17日 東京

 当日は国鉄千葉動力車労働組合(千葉動労)によるストライキもあった。さすが、千葉動労!
皇紀2666年3月17日 東京

 出雲が入線する10番線にはすでに多くの者が最後の瞬間を見ようと跳梁跋扈していた。わしもその戦列に加わることとしよう。
皇紀2666年3月17日 東京

 9・10番線熱海方先端に向かうほど、魍魎(己もその一員ですが)の数が増えてくる。この日は113系の最終日でもあり、数百人は下らない人数が大挙しておしよせていた。
皇紀2666年3月17日 東京

 東北・上越・長野新幹線20・21番線にも多数が繰り出している。
皇紀2666年3月17日 東京

 駅員や周囲の人間に何回も注意されておきながら、平気な顔をして脚立に乗る者が出現する。
皇紀2666年3月17日 東京

 出雲接近の案内放送が流れると、先頭集団は、己のカメラを前の者の頭上に高らかと上げ、出雲の最後の瞬間を少しでも良く撮ろうとする。最前列集団から『出雲コール』が聞こえる中、局所的に怒声が響く中、最後の出雲市行3レ寝台特急出雲が東京駅へと入線する。
皇紀2666年3月17日 東京

 ついに最後の3レ出雲が入線した。二度と帰らぬ旅に出る出雲を見送るにつけ、大東亜戦争末期、特攻機を見送る航空整備兵の心境は如何ばかりであったか、などとふと思う。
皇紀2666年3月17日 東京

 先頭のEF65PFやカニ24の周辺にはロープが貼られる。21時10分、ついに3レ 寝台特急出雲 出雲市行が最後の旅に出るべく、長い警笛を鳴らしてゆっくりと東京駅から離れていく。この出雲が出雲市に到着する約14時間後に、出雲の名は過去のものとなるのだ。聞くところに寄れば、途中の静岡辺りで暴走せし似非愛鉄者が最終出雲に非礼を働いたとの事。自分のことを差し置いていうのもなんだが、許せん。
皇紀2666年3月17日 東京

 最終出雲が東京駅を去っても、113系最終列車まではまだ時間があるからか、多くの魍魎がホームに残存していた。ふと上を見上げると、もはや存在しない出雲号の案内表示が。隣はおそらく、一足先に消滅した『あさかぜ』や『さくら』のものと思われる。東京駅に現れる定期客車列車はこれで富士・はやぶさ、そして銀河のみとなってしまった現実が、明日からの毎日だ。
 さようなら寝台特急出雲。大總統閣下兼大国鉄総裁が復活させてくれるその日を信じて(?←ギャグを言うべきところではないが)、今は眠りの時に浸れ。

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