萩森炭礦貨物線跡
萩森炭礦貨物線はかつて山陽本線小野田駅より延びていた貨物線である。萩森炭礦は支那事変中の皇紀2598年(昭和13年)に設立され、大東亜戦争中の皇紀2603年(昭和18年)に宇部興産の傘下となった。貨物線は戦時建造の簡素なコンクリート橋が多用されており、大東亜戦争前後に建設されたものと思われる。しかし、石炭産業の斜陽化に伴い、皇紀2623年(昭和38年)に萩森炭礦は閉山となり、貨物線も運命を共にした。会社自体は萩森興産として生き延び、コンクリートを主力に、近年では環境対策や新素材の開発等にも力を入れている。
調査は皇紀2667年(平成19年)2月7日、扶桑座。
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起点の小野田駅付近は、現在接続していた辺りに工場が存在しているため近づくのは困難であるが、工場内の廃線跡は残っている模様。 工場北側には廃線跡の未舗装路がそのまま残っている。小野田駅方を望む。 |
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上の地点から終点方を見る。どうやら廃線跡は左側の樹木帯だったようで、この道路は後で建設されたようである。 |
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廃線跡を転用した街路樹帯とその取り付け道は近隣の運動公園駐車場建設時に作られたようである。やがて、駐車場付近(この画面外)で再び未舗装の廃線跡が現れる。 |
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未舗装となった廃線跡に出現するコンクリート橋。鉄道時代の物と見て間違いない。物資に困窮した時代に製造されたものであるのが分かる。 |
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橋から先も未舗装道として廃線跡が続いている。画面奥で廃線跡は西側に大きくカーブを描く。 |
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やがて県道との交差部分にあたる。ここは架道橋で越えていた。小野田駅方は築堤が崩されて岩が置かれているが橋台が残っている。一方、萩森炭礦方は橋台は無いが築堤が続いている。 |
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小野田側に残る橋台跡を横から見たもの。 |
終点萩森炭礦側にも暫く跡は続き、他にもコンクリート橋跡が残っているようだが、時間の都合上調査したのはここまでである。いずれにしろ、あまり有名な廃線跡ではなく、廃止から40年以上過ぎているだけに、大東亜戦争前後の国内事情をまざまざと見せ付けてくれる遺物が意外に残っている事に感心させられる。萩森炭鉱貨物線