船木鉄道跡

 船木鉄道は、現在、宇部市内を中心にバス路線を展開するバス事業者として健在であるが、その名の通り、かつては鉄道路線を有していた。
 かつての宿場町船木と山陽鉄道(現在の山陽本線)宇部駅を結ぶべく計画され、皇紀2574年(大正3年)着工開始、皇紀2576年(大正5年)9月16日に宇部〜船木町4.9kmが開業。当初は、船木軽便鉄道という社名で、レール幅も762mmであった。皇紀2579年(大正8年)より船木鉄道へ社名変更、皇紀2582年(大正11年)より1067mm改軌工事と延伸工事が開始され、翌年改軌および船木町〜万倉延伸開業を達成した。そして、皇紀2586年(大正15年)7月に万倉〜今富、11月に今富〜吉部が開業した(これにより最終的な全線開業だが、さらに大田へ延伸する計画もあった)。
 以後、沿線住民や雑貨の輸送、または付近に点在する石炭鉱の石炭輸送に貢献したが、大東亜戦争敗色濃厚となりし皇紀2604年(昭和19年)3月に万倉〜吉部が休止されてレール供出が行われ、以後、復活する事はなかった。そして、残った区間も石炭産業の衰退と自動車時代の到来により廃止のやむなきに至ったのである。時此れ皇紀2621年(昭和36年)10月19日。その後、冒頭の通り、運営会社自体はバス事業として歩んでいる。
 調査は皇紀2667年(平成19年)2月7日、扶桑座。

この日は、萩森興産専用線跡探査と合わせて実施しており、通行の都合上、宇部駅付近の遺構は見落としている。まず最初に見るのは、宇部〜有帆に残存している有帆川を渡った石積橋台跡。
有帆川橋台のうち、吉部側を望む。
同橋台のうち、宇部側を望む。
吉部側橋台に続く築堤跡である。
有帆から船木町にかけては概ね道路に転用されている。
鉄道現役時代は存在していなかった山陽新幹線をくぐる付近である。
船木町駅は、駅舎がなお現存している。この時点(皇紀2667年)で廃止より46年が経過していた。
かつては鉄道車両がたむろしていたであろう構内跡は、今はバス車両がたくさん置かれているのであった。
もう一回駅舎を見てから先に進む。
鉄道廃止時まで営業を行っていた万倉までの跡は大半が道路に転用されていると言った感じでトレースは容易だが、廃線跡巡りの楽しさは薄れつつあるといったところ。むしろ色濃く残る廃線跡は、大東亜戦争末期にレール供出休止となった万倉から先の区間であろう。早速雰囲気が良い築堤跡が出てきた。
先行休止区間の有名な遺構の一つ、コンクリート製橋台と細長い橋脚が残存する区間。築堤ともども状態よく残っているが、築堤上には新しい民家が建ち始める等の変化もある。
橋脚跡をアップで臨む。何故か横着して往年のアクティの中からしか撮っていなかった。
農耕車両が入れるように破壊された箇所もあるが、築堤が連なっているこの地区。幹線系から中古譲渡された明治期の小型輸入蒸気が、木造二軸客車を牽いていた姿を想像するのも、鉄道廃線跡巡りを行う者の思考よ。
やがて線路跡は並行する県道30号から離れた雑木林の中を走るようになる。その後の調査では、未だ駅ホーム等が残っている場所もあるとの事であったが、突入を断念し、先を進んだ。やがて、峠駅があった辺りに到着。ここに船木鉄道バスの峠停留所がある。
その近くに船木鉄道の隧道跡が残存している。この隧道は発見できたが、大棚の隧道は発見ならずであった。ちなみに、峠から大棚にかけての県道30号線沿いに船木鉄道のバス廃車体があった。
吉部の街に入ってくると明瞭に残っている廃線跡が出現。コンクリート製の小型アーチが残っていた。
吉部八幡宮・吉部護国神社への参道を横切っていた個所にあった橋台はなかなか立派であった。

 宇部駅付近の残存橋台や今富付近の藪、そして、大棚の隧道が見れなかったのが残念無念であったが、いつかまた、探索を行うと心に誓って現場を後にしたのであった。

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