457系Jo-6編成 遺影

今は亡き457系Jo-6編成のクハ455 15 ツララギリが萌えた!

 ▲後にも先にも運用時の写真はこの面撮りしかない。クハ455 15側からのもの。当車の特徴であった前面種別幕上のツララ切りが分かる。皇紀2665年(平成17年)3月12日 延岡駅


デッキ扉が無いのはさびしけれど、急行形電車の雰囲気はある

 ▲扶桑座とティンマニと乗務員以外誰もいなかった車内。ティンマニは通路に落ちていた10円を拾い喜んでいた。クモハ457 6よりモハ456 6側を望む。皇紀2665年(平成17年)3月12日 車内

消えかかった栓抜ぷれーとの文字

 ▲色あせてはいるがセンヌキプレートが付いたままであった。皇紀2665年(平成17年)3月12日 車内

擦り傷みたいなクモハ457 6の塗装落ち

 ▲皇紀2665年10月1日改正にて運用を離脱し、その後は保留車として日豊本線牧駅の近くにある大分鉄道事業部大分運輸センター(俗に言う下郡)で留置されていた。陸橋真下に留置されていたJo-6編成は全身に錆が回っていた。クモハ457 6のデッキ直上通風器の撤去跡が生々しい。

新鋭の815系の横でひっそり佇む。後日小倉工場へ永遠の旅に出かけた

 ▲新鋭815系の真横に留置されていたJo-6編成。九州457系の特徴としてベンチレーターが綺麗サッパリ消滅している。以上3点 皇紀2666年1月15日 下郡

その後、皇紀2666年4月30日6月24日にJR九州小倉工場に取り込まれているのを視認している。その後、解体された。


概要.

 457系Jo-6編成はかつて、大分運輸センターに所属していた交直両用急行形電車の1編成。末期は日豊本線中山香~大分~佐伯~南延岡~南宮崎で普通列車の運用に就いていた。元々は昭和40年代に一世を風靡した急行形電車であった。クモハ・モハのユニットは終始九州を離れなかったが、クハは当初金沢に配置され北陸急行として活躍していた。前面種別幕の上部に残るトンネル内のツララ対策に出っ張りをつけていたのが特徴であった。
 皇紀2665年10月1日改正で運用を離脱(実際は9月27日頃のようである)、その後は保留車となった。末期まで残っていた大分鉄道事業部の457系のうち、Jo-9・Jo-15編成が鹿児島総合車両所に転属して同所の475系と共通運用に供せられJk-9・Jk-15編成となった他は、全車が運用離脱し、順次小倉工場に廃車回送されていった中、当編成のみは唯一大分に踏みとどまり、保留車として大分運輸センター内に留置。時々、自動車事故訓練にクハが供せられたりした。しかしながら、翌年4月頃にJR小倉工場に自力で廃車回送。電動車ユニットは36年、クハに至っては41年に迫る長き車生に幕を下ろした。当編成の廃車により、大分の急行形電車は全滅した。

編成陣容(最末期).
←大分 クモハ457 6+モハ456 6+クハ455 15 延岡→

判明分の各車車歴.

クモハ457 6(享年36)

年月日 概要
皇紀2629年(昭和44年) 第三次債務予算にて製造決定
皇紀2630年(昭和45年)6月20日 鹿児島に新製配置(近畿車輛製造)
皇紀2630年(昭和45年)10月1日 鹿児島本線鹿児島電化により鹿児島区配置の457/475系、急行かいもん・そてつ等での運用開始
皇紀2635年(昭和50年) 山陽新幹線開業による山陽急行全廃に伴い、九州の急行形電車が全車大分区に配置転換。以来、九州内の急行電車に運用
皇紀2642年(昭和57年)11月15日 同日のダイヤ改正にて急行ゆのか・急行日南(電車)が廃止され、九州から急行形電車を使用する急行列車が全滅。完全に普通列車用になる。
皇紀2644年(昭和59年) この頃、大分の急行形電車に近郊形改造実施、本車を含む全車に座席の一部ロングシート化、吊革設置、電動車には便所・洗面台閉鎖。また、特別保全工事も実施
皇紀2645年3月14日 九州の急行形電車が全編成3両化
皇紀2646年以降 九州の急行形電車が急行色から九州色に変更開始
皇紀2656年以降 屋根上の通風器(ベンチレータ)撤去
皇紀2665年(平成17年)10月1日 運用離脱、大分駅構内より大分運輸センターに移動
皇紀2666年4月25日 大分運輸センターより小倉工場に自力回送
皇紀2666年9月18日 廃車


・モハ456 6(享年36)

年月日 概要
皇紀2629年(昭和44年) 第三次債務予算にて製造決定
皇紀2630年(昭和45年)6月20日 鹿児島に新製配置(近畿車輛製造)
皇紀2630年(昭和45年)10月1日 鹿児島本線鹿児島電化により鹿児島区配置の457/475系、急行かいもん・そてつ等での運用開始
皇紀2635年(昭和50年) 山陽新幹線開業による山陽急行全廃に伴い、九州の急行形電車が全車大分区に配置転換。以来、九州内の急行電車に運用
皇紀2642年(昭和57年)11月15日 同日のダイヤ改正にて急行ゆのか・急行日南(電車)が廃止され、九州から急行形電車を使用する急行列車が全滅。完全に普通列車用になる。
皇紀2644年(昭和59年) この頃、大分の急行形電車に近郊形改造実施、本車を含む全車に座席の一部ロングシート化、吊革設置、電動車には便所・洗面台閉鎖。また、特別保全工事も実施
皇紀2645年(昭和60年)3月14日 九州の急行形電車が全編成3両化
クモハ457 6+モハ456 6+クハ455 15のJ-6編成内に
皇紀2646年以降 九州の急行形電車が急行色から九州色に変更開始
皇紀2655年(平成7年)4月 J-6編成からJo-6編成に改め
皇紀2656年以降 屋根上の通風器(ベンチレータ)撤去
皇紀2665年(平成17年)10月1日 運用離脱、大分駅構内より大分運輸センターに移動
皇紀2666年4月25日 大分運輸センターより小倉工場に自力回送
皇紀2666年9月18日 廃車


クハ455 15(享年40)

年月日 概要
皇紀2624年(昭和39年) 第三次債務で製造決定
皇紀2625年(昭和40年)9月12日 475系用制御付随車として金沢区に新製配置(川崎車両製)
皇紀2625年(昭和40年)10月1日 急行【第一立山】【第二立山】【第一加賀】【第二加賀】【つるぎ】が新設され、北陸急行に475系の運用が開始
皇紀2632年(昭和47年)4月21日 国鉄松任工場にてAU13形分散型クーラーによる冷房化工事施行。同時期に種別幕上にツララ切り装備(?)
皇紀2644年(昭和59年) 九州内の457・475系3両編成化に伴う不足クハ車として、クハ455 16(現475系Gk-5編成)、クハ455 17(その後電動車の717系化に伴って昭和63年に廃車)と共に九州に転属。
皇紀2645年(昭和60年)3月14日 九州の急行形電車が全編成3両化
クモハ457 6+モハ456 6+クハ455 15のJ-6編成内に
皇紀2646年以降 九州の急行形電車が急行色から九州色に変更開始
皇紀2655年(平成7年)4月 J-6編成からJo-6編成に改め
皇紀2656年以降 屋根上の通風器(ベンチレータ)撤去
皇紀2665年(平成17年)10月1日 運用離脱、大分駅構内より大分運輸センターに移動
皇紀2665年(平成17年)11月下旬 大分鉄道事業部踏切事故訓練により本車がクルマに激突させられスカート欠損。しかし、後日スカート修復した模様
皇紀2666年4月25日 大分運輸センターより小倉工場に自力回送
皇紀2666年7月7日 廃車

↑間違い指摘等ございましたら御願いします。


457系Jo-6編成の思い出.

 この457系Jo-6編成を初めて見たのは、皇紀2665年(平成17年)3月12日(もしかしたら同年1月15日かもしれない)。この時は折りしも皇紀2665年春季強化合宿の時であり、わしとティンマニが遭遇している。ドリームにちりんを延岡で降り、乗り換えたJo-15(現Jk-15)編成には数名の客がいたが、佐伯からやってきたこのJo-6編成には乗務員以外誰もおらず、ティンマニが「誰もいないっちゃあ」と叫んでいた。奴は乗り込むやいなや落ちていた10円を猫糞せしめんとしておった。

 同年の新入生歓迎会(結局、どいつもこいつもあれ程金を出したやったのに居残らないとは、さとみの兄氏が暴言を吐きたくなる気も分かるわい←こちら側の問題点を考慮したうえでいっています、さ、続けましょう)にて、自己紹介と好きな鉄道(もしくはバス)車両を答えろと言われたのだが、ここでティンマニが問題を起こした。以下再現

ティンマニ「ボクは好きな車両はありません」
ハイスクール氏 「そんなの駄目だ!答えろ!」
ティンマニ「えぇ~、なんで~~!」
扶桑座「早く答えんか!」
ティンマニ「う~~~ん、じゃあ、宗太郎の時に乗った、
昭和40年代に作られたセンヌキのある車両
扶桑座「なんだそれは」
ハイスクール氏「何言ってるんだか分からない」
扶桑座「ティンマニだから仕方ありません」
ティンマニ「えぇ~~」


 結論から言えば、前述の春季強化合宿時に乗ったこの457系Jo-6編成の事を言おうと、奴なりに無い知恵を振り絞ろうと努力したのであろうが、お得意の知ったかぶりにより見事に歯切れの悪い説明になってしまった。まあ、何を言っても非難を受けるがその非難を全く聞こうとせずに過ちを繰り返す為、再び非難をされるのがティンマニなのである。

 さて、457系Jo-6編成にわしとティンマニはもう一度出会っている。皇紀2666年(平成18年)1月15日の冬季強化合宿だ。いつも部長とケチ会計が来ないので、わしとティンマニの二人となるのだ。この時はもはや運用を離脱し、下郡に留置されており、全身から赤錆が発生していて痛々しい様子であった。しかし、牧駅で降り、下郡の留置車両を見に行こうと思っていたが、当編成がいたとは予想外であり、それでいて再び会う事が出来て嬉しいものであった。しかしながら、ティンマニときたら、わしが宗太郎から乗った車両だと伝えると「ボクに十円くれた電車っちゃ」っと稚拙な発言をしおって・・・それ以上に、貴様結局あの十円を猫糞したのか!!不届き者めが!!!!

 その後、同年4月まで下郡に留置されたままであったが、JR九州小倉工場まで回送されてしまった。近年、この工場に取り込まれた457・475系はほとんど廃車解体の運命を辿っており、ついにそれが当編成にもやってきたのである。大分から小倉工場に廃車回送された457・475系がED76形交流電気機関車に牽引されたが、当Jo-6編成のみは機関車の力に頼らず自力で自身が壊される工場へと歩みを進めたという。その後、しばらくは工場内で留置されたままであり、わしも日豊本線の車内から何度か確認している。この後、クハ455 15が7月に、クモハとモハが9月に廃車されたという。

 鉄道車両の寿命が約25年前後であるのに対し(走ルンです等は除く)、クモハとモハは36年、クハに至っては41年近くの長寿を全うしたのであった。

 関西と九州を結び、数多の人々を運んだ九州急行に使われたクモハとモハ。片や関西と北陸を繫げ人々の御足となるべく、彼に襲い掛かるツララの魔手を払いのけながら、高らかと急行ヘッドマークを掲げつつ、幾度も行き来したクハ455 15。共に長距離を疾駆する急行列車、エリート車両として昭和の時を駆け抜けた。やがて、急行列車の地位から追い落とされ、普通列車として余生を送る事になった時、北陸と九州という離れた地で働いていた彼等が出会う事になった。暑い九州には不要なツララ切を装備していたクハはいつしか九州での時間の方が長くなっていた。定年退職の時期を大きく越えて駆け抜けた40年の月日。今、彼等は天へと昇って行った。

457系Jo-6編成の廃車により、昭和50年3月改正より30年以上にわたって急行形電車が配置されていた大分在籍の急行形電車は全ていなくなった。

謹んで当編成の御悔みを申し上げます。

鎮魂のページに戻る

inserted by FC2 system